教育学部に入りたての僕が現時点で教育について考えていること

 

進振りの結果、教育学部に内定し教育学部の授業が始まってから一週間が過ぎた。

現時点で僕が「教育」について考えていることを記しておこう。

この記事は「教育」についての僕の考えを他人に対して公開する(見せる)という目的もあるが、後々になって僕自身が過去に考えていたことを振り返れるようにするために書くという目的も大きい。

教育学部の授業で影響を受ける前の、素人考えの「教育観」を記録しておこうというわけだ。後に、「価値観が変わったな」とか「過去の自分が考えていたことは、内容としては稚拙だけど方向性は今と同じだな」などと振り返ることができれば幸いである。

 

前置きはこのくらいにしておこう。

まずは、「教育」の意義について考えることにする。

はじめに結論を言ってしまえば、「教育」の意義は「自律した思考を生涯にわたって継続できる人間へと育てる」ことにあると思う。

「教育」とは文字通り、「教え育てること」だろう。「教育」の対象は人間であり、より望ましい人間へと育てることが教育の目的だろう。

では、「より望ましい人間」とはどのような人を指すのか?

人格者であること、健やかな人間であることなどは重要な要素だが、人間を人間たらしめていて人間社会で生きていく上で最も重要な要素は「思考すること」にあるのではないだろうか?

 

フランスの哲学者パスカルはこう言っている。

人間はひとくきの葦に過ぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、自分が死ねることと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。

だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。

 続いて、僕が好きな「涼宮ハルヒシリーズ」からも引用しよう。「涼宮ハルヒの驚愕(前)」の佐々木のセリフ。

「やれやれ。人は何故生きるのかとか、何のために生きているのか、なんて設問は禅問答の範疇でしかないよ。観念的な意味があるように見えて、その実何の意味もない。でも、それを承知の上であえて言うのならば、僕の存在意義は第一に『思考すること』であり、第二に『思考を継続すること』と答えるしかないな。考えることをやめる時は僕が死んだ時だけであり、逆説的に、考えることをやめたらそれは死んだも同然と言える。僕という個は消え失せ、ただ動物的な生が残るだけだろう」

 

やはり、人間を人間たらしめているものは「思考」であり、「思考」が人間として生きていく上で必要不可欠のものであるということは皆の共通認識とする所ではないだろうか?

文化や科学といった人間的な営みはすべて「思考」に起因するはずだ。人間が登場する以前まで、地球上では生物が環境に影響を及ぼす場合、それはほとんど「遺伝子」の力だったと言えるだろう。動物一個体ではほとんど環境に影響を与える力を持たなかったはずで、「遺伝子」による繁殖で集団となった時にかろうじて環境に影響を与えるようになるという程度ではないだろうか?

言うまでもなく、人間が環境に影響を与える力は遺伝子に留まらない。一人の人間が何らかの発明・発見をしたり、何らかの価値観を生み出すことで環境(社会)を一変させてしまうのである。

 

また、「徳」とか「思いやりの心」なども人間社会をより平和的に、各人が満足度の高い生活を送るために生み出された概念と考えるなら、こうしたものも思考の営みの延長にあるはずで、いずれにせよ「思考」が人間として必要不可欠なのは言うまでもないだろう。

生まれたばかりの赤ん坊は思考する力をほとんど持たないはずなので、人間として生きるために必要な「思考力」を養うのは教育の役目であるだろう。

 

さきほど、教育の意義を「自律した思考を生涯にわたって継続できる人間へと育てること」と書いた。このように書いたのは、教育が「洗脳」であってはいけないと思うからだ。

人間にとって必要なのは「学び」であると思う。自律した思考により、新しい概念を生み出したり、発見をしたり、社会に影響を与えるような行動をしたりするためには「学び」が必要であろう。

教育とは、自ら考え、学習し、新しい知見を追求する営みである「学び」をサポートするためのものであると思う。「学び」をする上で必要な思考力を醸成する、あるいは前提となる基礎知識を伝授するのが「教育」の役目であるはずだ。

そして、「学び」とは生涯にわたるものだ。「学び」とはいわゆる学問に限定されているものではなく、社会を生きていく上で自律した思考により新しいものやより良いものなどを追求していく営みのすべてが「学び」に該当するのだと思う。

 

ホリエモンの『すべての教育は「洗脳」である』にこう書いてある。

対して「学び」 は、常に能動的だ。未知の領域に足を踏み入れ、新しい体験や考え方を味わうことのすべてがこれにあたる。だから、場所は学校や企業に限定されないし、正解もいらない。すべては、「自分で切り拓いていく」営みなのである。

お年寄りになっても、「学び」は可能であるし(脳機能が衰えれば話は別だが)、目まぐるしく動く世界の中で、思考を新たにしていく営みは「学び」であると言えるので、「学び」とはすべての人が社会を生き抜く上で行っていかねばならないことなのである。

「学び」とは生涯にわたるものであり、「学ぶ力」を養成するのが教育だと僕は感じている。

 

ここまで、原理・原則としての僕なりの教育論・教育観について語った。

次にその実践編として日本の教育を考えていきたい。

端的に言えば、日本の教育は「(思考する上で前提となる)知識を伝授すること」と「思考力を醸成すること」に傾倒していると思う。先程までで散々書いた「自律した」という要素が圧倒的に欠落しているのである。

 

学校での授業のことを思い出してみよう。

常に「問い」を投げかけるのは誰であっただろうか?

「問い」を投げかけるのはほとんど常に教師や教材であり、生徒は常に答える側で受け身の姿勢であったはずだ。

学校の授業で、生徒自身が疑問を持ち自ら探求していく「学び」のプロセスはほとんど実現されていないと言えるだろう。

学校教育は知能としての「思考力」を養ってはいるのだが、主体的に「学んでいく」ために必要な「自律した思考」については養うどころか、むしろ妨げているのである。

 

なぜ、そうなっているのか?

学校は生徒に強い「自我」が芽生えるのを嫌うからである。

その理由の一つとして、強い「自我」が芽生えた生徒がたくさん出てくると集団授業をするのに支障が出るという問題があるからだろう。

確かに、学校中にお札を貼って回ったり、真夜中の校庭に忍び込んで石灰でデカデカと謎の文字を書いたりするような涼宮ハルヒのような生徒が出てきては学校側としては困るだろう。

ただ、理由はそれだけではないと思う。

そもそも学校教育は「従順で有能な労働者を大量生産すること」が目的としてあるからではないだろうか?

またまた、ホリエモンの『すべての教育は「洗脳」である』からの引用であるが、同様のことが書かれている。

学校は、そこに通う人間を、とにかく「規格」どおりに仕上げようとする。建前上は「個性を大切にしよう」「のびのびと育ってほしい」などと言うものの、その裏にはいつも「ただし常識の範囲内で」という本音が潜んでいるのだ。 

(中略)

教師は子どもたちに同じテキストを暗記させ、同じ数学の問題を解かせ、同じルールで採点していく。赤点を取ったり、問題行動を起こしたりした子どもは、どうにか「規格内」になるよう尻を叩く。そして、「会社」に納品する。

というわけである。

涼宮ハルヒの例で言えば、真夜中の校庭に忍び込んで落書きするのは流石に問題かもしれないが、自己紹介で「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上」と言ったり、SOS団(世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団)を結成することなどについては何ら問題ないだろう。しかし、現実の学校では後者の行為もおそらく問題視され、生活指導を受けることになってしまうはずだ。

涼宮ハルヒは極端な例だが、学校教育が「規格内」に収まった「常識」のある人間の育成を目的とし、強い「自我」の発芽を嫌っていると言い切れる根拠となる事例がある。それは道徳の「教科化」だ。

道徳にまで成績をつける、つまり「正解」を求める教育が行われようとしているのである。

多様性を排除する教育であり、複数の正解を認めない、強い「自我」を目覚めさせてしまうような自律した思考を妨げようとする学校教育の姿勢が表れていると言えるだろう。

 

自ら考え、新しい知見を追求していく営みである「学び」を支える根幹となる「自律した思考力」を育成することと、強い「自我」を目覚めさせる教育は表裏一体であると思う。

「教えられる」のではなく、「自ら考える」の度合いを強めれば強めるほど、その人なりの「自我」が芽生えていくはずだからだ。

確かに労働者としてこき使うためには「自我」は邪魔かもしれない。

しかし、我々は人間である。人間らしく生きていくために、単なる葦ではなく「考える葦」として生きていくために、僕は教育が「自律した思考を生涯にわたって継続できる人間へと育てる」ためにあることを願うばかりである。

 

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