憲法27条「勤労の義務」を巡る憲法改正論とベーシックインカム

政治の世界では憲法改正への流れが強まっており、巷では憲法9条を巡る改憲論が話題となっています。

このブログは政治的に右の人にも左の人にも見てもらいたいと思っていますし、僕の問題意識は「今ある社会問題や、移りゆく社会の変化にどう対応したら良いか。個人の生き方として、尊厳があり幸福な生き方はどのようなものか。」という所にあり、このブログはそうしたテーマに切り込もうという意欲を持ったものですので、その問題意識に則った改憲の話をしようと思います。

僕は法学徒ではありませんし、法律を学んだこともありません。あくまで素人が書いた記事であるということをご了承下さい。

 

憲法が規定する国民の三大義務は「教育の義務」「勤労の義務」「納税の義務」ですが、僕は以前から引っかかるものを感じていました。

なぜ、「勤労」が「義務」なんであろうか?と。

 

生きていくために働いて金銭を稼ぐということが必要ではあるのですが、「働く」ということは個人の自由意思によるものであって国家から「義務」だと言われる謂れはないのではないか?と。

例えば、専業主婦(専業主夫)は勤労の義務を果たしていないのか?そうした多様な生き方を国家は否定するのか、と思うわけです。

もちろん、「勤労」を「働いて賃金を稼ぐこと」という狭義の意味に捉えなければ、専業主婦は勤労をしていると言えるわけですが。

しかし、どこまでいけば「勤労」と見なせるのか。家事手伝いは「家事」に従事しているから勤労をしているけど、ニートは駄目なのか。家事手伝いとニートの違いは何なのか?というふうになります。

とにかく、勤労を「義務」として国家が定めているところが社会主義国っぽく感じられ、自由主義と民主主義に則った日本の憲法としてやや違和感があります。

納税さえすれば、必ずしも勤労を義務としなくても良いではないかと。

 

もちろん憲法は国家への規定であり、国民が遵守するというものではないため、「勤労の義務」を果たしていないからといって罰則を受けるとかそういうことはないのですが、やはり憲法に書かれているということは国家は勤労を国民の倫理規範としており、勤労を前提とした社会制度を作っているということになります。

 

現在の社会保障制度は、企業を通じて厚生年金を支払う、最低賃金制度で企業に従業員の生活を保障させる、失業したら失業保険がついてくるなど、「勤労」「労働」を前提とし企業に生活保障の義務を負わせるような形となっています。

どうしても働けないという場合は、生活保護ということになるのですが、生活保護の需給を受けるには厳しい審査基準をクリアしなければなりません。

「どうしても働けない」「財産がない」などということを証明しなければならないというわけです。

さらに、生活保護は捕捉率が低いということも指摘されています。つまり、実際に生活保護を受給すべき水準にある人の多くが生活保護を受けられない実態があるわけです。

憲法に書かれている「勤労の義務」は、努力義務みたいなものということではあるのですが、実態として企業で働くことが前提の制度ができあがっており、生活保護の厳しい審査基準を考えると事実上国民に「勤労」を強いているという見方ができるわけです。

 

憲法27条の「勤労の義務」を改正するという話はおそらくどの政党も言ってないと思うので、日本では保守・リベラルともにここに疑問を感じてはいないということになります。

「勤労」を前提とし、企業に個人の生活保障を負わせるという考え方は保守・リベラルともに一致した考え方ということになります。

特にリベラル派は労働者の立場にたって、最低賃金の上昇などを目指す運動をやっています。リベラル派は労働を前提とし、「企業が個人の生活保障を負う」という考え方をしているからこそ、最低賃金を引き上げることで国民の暮らしを改善しようとしているということになります。

しかし、最低賃金を引き上げることは本当に労働者のため、弱者のためになるのでしょうか?

下図を見て下さい。

中間賃金に対する最低賃金の割合を横軸、若年失業率を縦軸にとったものですが、最低賃金の上昇と失業率の増加に正の相関が見てとれます。

f:id:todairyunen:20171018182559g:plain

 画像引用元:

http://www5.cao.go.jp/j-j/wp-we/wp-we99/sekaihakusho-99-22.html

 

biz-journal.jp

この記事にもこう書いてあります。

最低賃金の引き上げは一見、貧困に苦しむ人々を助ける人道的な政策のように見える。しかし残念ながら実際には、貧しい人々を助けることはできない。むしろ職を見つけられなかったり失業したりする人が増える。

考えれば当たり前の話です。

共産党は「最低賃金を1500円に」と主張していますが、仮に最低賃金が1500円になった時のことを経営者視点で考えてみましょう。

一時間あたり1200円の利益を生むAさんという従業員がいたとします。

企業は時給1000円ならAさんを雇うかもしれません。しかし、最低賃金が1500円となればAさんを解雇せざるを得ないでしょう。

最低賃金の上昇は、生産性や能力が低い人を切り捨てる結果となります。

 

では、どうすれば良いのか?

解決策として提案するのがベーシックインカムです。

ベーシックインカムを導入することで、国民の生活保障を負わせる主体を「企業」から「国家」に変えてやろうというわけです。

憲法25条では

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

と書かれているわけですが、ベーシックインカムはお金を全国民に配ることでまさに憲法25条の理念を達成することができます。

憲法27条の「勤労の義務」を改正(勤労を義務から外す)し、「生活保障」の主体を企業から国家に移し、ベーシックインカムを導入すべきであると僕が考えている背景として、人工知能の発達があります。

アメリカの発明家、レイ・カーツワイルは「シンギュラリティ(技術的特異点)」を提唱し話題となりました。

カーツワイル氏によれば

技術的特異点人工知能は地球上で最も賢く最も有能な生命体としての人間を上回るように発生する。技術開発は、自ら考え、行動し、通常の人間には何が起こっているのか理解できないほど迅速に相互通信できるマシンによって引き継がる。マシンは、AI自らの手でそれぞれの新しい世代が迅速に開発される、自己改善サイクルの「暴走反応」に入る。これ以降、技術の進歩は、マシンの制御下におかれ、爆発的であるため、正確に(それゆえ「特異点」という)予測することはできない。

 引用元:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%AB

ということであり、AIが全人類の知性を超え、未来が予測不能になる日を2045年としています。

www.nikkei.com

また、「汎用人工知能」が2030年頃登場するという見解もあります。

汎用AIについて、『人工知能と経済の未来』から引用すると

「汎用AI」は、人間に可能な知的な振る舞いを一通りこなすことのできるAIです。もう少し正確にいうと、それは必ずしも人間と同じように振舞う必要はありません。汎用AIは、あらゆる課題・目的に対応できるようなAIです。

ということです。

この汎用AIが登場してしまえば、人間のほとんどの知的営みは人工知能で代用できるということになるので、多くの仕事において人間を必要とはしなくなるわけです。

当然のことながら、大規模な技術的失業が起き、「勤労」を前提とした社会のシステムは崩壊します。

現在、存在する人工知能は「特化型人工知能」です。

特化型人工知能は特定の作業を遂行するためのAIであり、自動運転や画像認識、音声認識、チャットボットなど様々な領域で存在しています。

近年ではディープラーニングの技術が登場したことで、機械が自動的に特徴を抽出し学習を重ねていくことができるようになったため特定分野では人間を凌駕できるようになりました。

グーグルの開発した囲碁AIが最強の囲碁棋士を破ったのは記憶に新しいでしょう。

汎用人工知能が登場しなかったとしても、様々な領域で特化型人工知能が使用されたらやはり大規模な技術的失業は避けられません。

現状思い浮かぶ中で最も大きな技術的失業を生みそうなのは自動運転ですが、自動運転の実用化は近い将来にほぼ確実に行われるでしょう。

情報技術の発達で、現在伸びている産業というのはあまり人を雇わない傾向にあります。フェイスブックが社員わずか13人のインスタグラムの開発会社を約10億ドル(当時の為替レートで810億円)で買収した事例などはそれを象徴するものでしょう。

www.nikkei.com

くどいようですが、もう近い将来には「勤労」を前提とした社会のシステム、「生活保障の主体を企業とするような今のやり方では崩壊すると言わざると得ません。

ベーシックインカムを導入し、国家がすべての人の最低限の生活を保障するようにしなければならないということはザッカーバーグ氏などIT界の巨人は皆言っていることであり、不可避の流れでしょう。

www.businessinsider.jp

今の政治は古い体質を引き継いでおり、この辺りの現実をほとんど視野に入れてないと僕は考えています。

特にリベラルがいつまでも古い考え方を抜け出し切れないでいるように見えます。

リベラルであるならもっと革新的で、技術が及ぼす社会の変化に敏感であるべきだと思います。ネットにおいては概して右派が強いのはリベラルの人がITやテクノロジーに弱い面があるからではないか、ということは津田大介さんが指摘しています。

www.huffingtonpost.jp

というわけで長くなりましたが、

『技術の発展による時代の変化を考え、ベーシックインカムを導入し、生活保障の主体を「企業」から「国家」に変えよう。「勤労は義務」とか「働かざるもの食うべからず」という考え方はもうやめよう。政治はもっと新しい技術に敏感になって、古い体質を変えていこう。』というのが本記事の要旨であり、僕からの提案です。

 

 

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ニートは田舎の自治体の議員に立候補すればそこそこの収入の職を得られるという説

もうすぐ衆議院選挙ですが、選挙に関連して以前考えていたことを思い出しました。

衆議院選挙などの国政選挙や首長選挙ともなれば当選するのは大変ですが、地方議員であれば案外簡単になることができます。

 

実は無投票で当選が決まってしまうケースも多くあります。

www.news-postseven.com

41道府県議選(4月3日告示)では無投票当選者の割合が、前回2011年統一選より大幅に増え、2割を超えると見られている。無投票当選とは、各選挙区で立候補者数が定数を上回らない事態を指す。立候補届に名前を書けばそのまま当選なのだ。

www.sankei.com

千葉県議選では18選挙区で「無投票当選」となっています。中には新人で無所属だけど、「無投票」で上手いこと当選できた人もいるようです。

 無投票だったのは県北東部や南部を中心とした18選挙区。このうち12選挙区は定数1の「1人区」で、残りの6選挙区は「2人区」だった。内訳は自民20人▽民主3人▽無所属1人-で、新人では自民の2人と無所属の1人が初当選を果たした。

 

 「ゼロからの選挙必勝マニュアル」などという本も出版されているようです。

この本は読んでないですが、このような本が出版されることから考えても地方議員なら案外簡単になれるようです。

何が言いたいのかといえば、「ニートでも地方議員ならなれるかも」ということです。

長年ニートをやっているような人は、履歴書の空白期間でケチつけられるため正社員になることは相当難しいでしょうし、かりになれたとしてブラック企業なら過酷な労働が待っている上に給料も高くありません。

ブラック企業で働くくらいならニートを続けるという方も多いでしょう。

それに比べれば、地方議員はある程度のやりがいがある上、そこまで激務だとは考えられませんし、そこそこの収入を貰えるわけです。

これは、目指してみる価値があるのではないでしょうか?

 

僕も人生に追い込まれたら地方議員を検討しようかと思います(笑)

(まだ、被選挙権の25歳にも達していませんが)

 

 

国政選挙では毎回大量に立候補させた上で華々しく全員落選する幸福実現党は地方議員を地道に増やしています。

togetter.com

例えば、幸福実現党の人が当選した小矢部市議選では定数16人で立候補者16人なので全員当選しています。

小矢部市議会議員選挙 | 選挙ドットコム

最近(2017年10月15日)に行われた北海道・遠軽町議会選挙でも定数16人で立候補者16人なので全員当選しており、このページを見ると16人中7人の肩書きが無職なので笑ってしまいます。

遠軽町議会議員選挙 | 選挙ドットコム

 

こんな感じで探していけば、上手いこと無投票で当選できる自治体は見つかると思います。

もし、この記事を見ている人の中でニートや無職の方や人生追い込まれた方などがいれば、地方議員というのを選択肢の一つとして検討してみて下さい!

 

 

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若者は白紙投票でもいいから選挙に行った方が良い理由

衆議院選挙が近づいてきましたので、選挙の話題でも。

毎回、選挙のたびに残念に思うことがあります。それは、「若者の投票率が低いこと」です。

「若者の投票率が低い」などということを問題に取り上げるのは、「最近の若者はなってない」と言いたがる中年層の人が多いイメージですが、僕は一応若者です笑(22歳)

なんで、こんなことを取り上げるのかと言えば端的に「若者の投票率が低いと自分が損をする」からです(笑)

「若者の投票率が低いと、若者向けの政策を打ち出しても当選できないので、政治家は高齢者を優遇するようになる」とはよく言われている話ですが、具体的にどのくらい不利になるのかの研究結果があるようです。

www.j-cast.com

 額に直すと、若年層の投票率が1%下がった場合、「将来へのツケ」とも言える国債が若年者1人あたり年額7万5300円分新たに発行され、「若年世代1人あたりの児童手当などの家族給付の額」と「高齢世代1人あたりの年金などの高齢者向け給付」の額の差が年に5万9800円拡大。若者よりも高齢者への給付が手厚くなる様子を浮き彫りにした。この2つを合計すると、若年層1人あたり年に13万5000円分の経済的不利益を受けるという計算になる。

わずか1%の投票率下落で、国債が年7万5300円新たに発行され、給付の世代間格差が年に5万9800円も拡大するそうです。

正直、ここまで大きいとは驚きました。

 

若者の投票率が低いというのは聞いたことがあるが、どのくらい低いのかはよくわからない方もいるかもしれないのでデータを貼っておきます。

このグラフを見れば一目瞭然でしょう。20代の投票率が全世代の中で投票率がダントツに低く、直近の衆院選である2014年の選挙で過去最低となる32.58%となっています。(2014年の衆院選投票率が低くなっているのは、他の世代も同じなので仕方ないことであるのですが)

f:id:todairyunen:20171017192203j:plain

画像出典↓

www.akaruisenkyo.or.jp

投票率が高くなっている平成21年(2009年)の選挙は、民主党政権が誕生した時の選挙です。長年継続した自民党政権から民主党政権交代するということで、選挙への関心が高まり投票率の上昇に繋がったのでしょう。

この時も20代の投票率は世代別で最低でしたが、上のグラフを見ると20代・30代の投票率が他の世代との比較で相対的に高まっているのが分かります。

しかし、今回の選挙は歴代の選挙と比べると盛り上がりに欠けるためにおそらく投票率はかなり低くなってしまうだろうと予想しています。

 

選挙に行かないと損をするということ、若者の投票率が低いことは分かって頂けたかと思いますが、「入れたい政党や候補者がいないために選挙に行かない」という方もいるかもしれません。

その場合の解決策として提案するのが、白票(白紙投票)でもいいから選挙に行け、ということです。

投票手順として

①受付(入場券を出す)

②選挙人名簿にのっている本人かどうかの確認を受ける(係の人がやってくれます)

③投票用紙をもらい、投票する

というステップになるのですが、②の段階を終えたところで、「あなたが投票をした」ということがデータとして記録されるわけです。

つまり、③の段階で投票用紙に候補者や政党の名前を書かず、白紙のまま投票箱にぶち込んだとしても、「あなたが投票をした」ことは記録され、投票率のデータに反映されるわけです。

つまり、白票でも良いから投票をすれば世代別の投票率のデータにも投票行動が反映され、(あなたが若者なら)若年層の投票率を押し上げることになります。

若年層の投票率が上がれば、実際に得をするようになるということは上に書いた通りです。

 

2009年の民主党政権への交代時に投票率が高くなったことや、実施されたばかりの18歳選挙権において10代の投票率が割と高くなったこと(前回の参院選で18歳の投票率が51.2%、19歳の投票率が39.2%)を考えると、ムードや風潮次第で投票率は高くなるわけです。

www.news24.jp

つまり、「投票に行かないと損をする」という意識の共有をなるべく多くの人に行い、選挙に行く風潮を作ることができれば良いのだと思います。

 

先程のデータで19歳の投票率が18歳と比べてかなり落ちている要因として考えられるのが、「住民票を移さず、一人暮らしをしている学生が投票できない」という問題です。

これについては不在者投票制度を利用することで、解決できるようです。

www.buzzfeed.com

www.soumu.go.jp

 

まあ、ちょっと面倒ですし、郵送の手続きで時間がかかるので今からでは間に合わないかもしれませんが・・・

 

とにかく、手元に投票所入場券を持っている人は選挙に行くことをお勧めします。

期日前投票の制度があるため、選挙期間中ならいつでも投票できます。

 

ぶっちゃけ、インターネットでの投票を可能にして欲しいですね。

そうすれば、若者の投票率が一瞬で上がりそうです。

 

 

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「君たちはどう生きるか」を読んで、マクロな認識の下で人生を見つめてみる

先日「君たちはどう生きるか」という小説を読んだ。

僕はこの小説の存在を知らなかったのだが、どうやら歴史的名著であるらしく本屋に「初のマンガ化」として以下の本が並んでいたために目に留まったのである。

 

漫画 君たちはどう生きるか

漫画 君たちはどう生きるか

 

「どう生きるか」について、ああでもない、こうでもないと日々悩んでいる(?)僕はこのタイトルに惹かれ、原作である岩波文庫の本を購入した。

 

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

 

「君たちはどう生きるか」は80年前に新潮社から出版された作品である。カテゴリーとしては「児童文学」であるらしく、文章としては平易で読みやすいのだが内容としては深く考えさせられるものだ。

丸山眞男の解説によれば、

『君たちはどう生きるか』はまさにその題名が直接示すように、第一義的に人間の生き方を問うた、つまり人生読本です。

(中略)

けれども、吉野さんの思想と人格が凝縮されている、この1930年代末の書物に展開されているのは、人生いかに生くべきか、という倫理だけでなくて、社会科学的認識とは何かという問題であり、むしろそうした社会認識の問題ときりはなせないかたちで、人間のモラルを問われている点に、そのユニークさがあるように思われます。

ということであり、「一人の人間がどう生きるか」という問題が社会科学的認識、つまり人間がどのような歴史を歩んできたか、この人間社会はどのようにして成り立っているかというような認識と不可分の関係にあるということを説いている本というわけである。

 

「自分の人生」というものを考える上で、ミクロな認識の下で考える人とマクロな認識の下で考える人がいると思う。

ミクロな認識の下で人生を考えるとは、自分とその周りの人間という狭い範囲を元として人生を考えるということである。動物的な本能に従った思考法でもあるだろう。

第一義に「自分自身の幸せ」を目標とし、人生というものを自分を主人公としたストーリーとして捉える。社会全体の中の一人として自分を捉えようとはしない、あるいは社会全体を変える、または動かす存在として自分を捉えるということはしない人間のことである。

マクロな認識の下で人生を考えるとは、自分というものを社会全体の一人として位置付けた上で、自分の人生というものを社会全体、もっと言えば人類の歴史を構成する一滴として捉えるというような見方である。

 

もちろん、ミクロな認識の下だけで人生を考える人はあまりいないだろうし、マクロな認識の下だけで人生を捉えるというのはほとんど不可能だろう。

ただ、傾向としてミクロな認識を主体として人生を捉える人と、マクロな認識を主体として人生を捉える人の両者がいるはずである。

歴史に名を遺す人というのは、そのほとんどが社会に課題意識を持った上で動いている人であるはずなので、マクロな認識を主体として人生を捉えていた人達であっただろう。

 

『君たちはどう生きるか』という作品は、まさに「マクロな認識の元で人生を捉える」ということの必要性を説いている本でもあると思う。

この小説の主人公はコペル君というあだ名がつけられているが、これはコペルニクスから取ったものだ。

コペルニクスのように、自分たちの地球が広い宇宙の中の天体の一つとして、その中を動いていると考えるか、それとも、自分たちの地球が宇宙の中心にどっかりと坐りこんでいると考えるか、この二つの考え方というものは、実は、天文学ばかりの事ではない。世の中とか、人生とかを考えるときにも、やっぱり、ついてまわることなのだ。 

コペル君は、「人間て、まあ、水の分子みたいなものだねえ。」という発見をした。一人の人間というものを社会全体の中の一人として客観的に捉えるようになったコペル君の発見を、おじさんは天動説から地動説へと見方を変えたコペルニクスになぞらえたというわけである。

 

社会全体の中の一人として自分を捉えた時、多くの人は自分のちっぽけさ、無力さに気づくだろう。マクロな認識の下で自分の人生を考えると、自分を見失いそうになり、何をすれば良いのか分からなくなる。僕もそうである。実際、僕はこの社会の中で自分が何をすべきか、多くの人が幸せに生きられる社会を作るにはどうしたら良いか、そのために自分はどんなことが出来て、どのような人生を送るのかということを考え、分からないまま悶々として生きている。

それは非常に難しいことで、だからミクロな認識に立ち返った方が楽なのである。社会の中の自分という大きな視点では眺めずに、ただ身の回りのことを淡々とやって、適度に遊んで、その他大勢の中の一人としてそれなりにやっていけば、それなりに幸せのまま死ねるのかもしれない。

その方が「お利口さん」だな、とも思うわけである。

 

ただ、やはり社会を良くしたいと思うわけである。確かに僕は社会全体の中であまりにちっぽけな一分子でしかないが、それでも人類の幸福のためにありたいと思うし、そのために何らかの活動をすることが自分自身の幸せのためでもあるのだ。

我々人類というものは、その歴史の中で目覚ましい進歩を遂げてきたし、物質的にはかつてないほど豊かになっている。

ただ、それでも苦しんでいる人が大勢いる。大きな問題を山ほど抱えているのが今日の我々だ。『君たちはどう生きるか』の中でも同様のことが書かれている。

人間であるからには、すべての人が人間らしく生きてゆけなくては嘘だ。そういう世の中でなくては嘘だ。このことは、真直ぐな心をもっている限り、誰にだって異議のないことなんだ。だが、今のところ、どんなに僕たちが残念に思っても、世の中はまだそうなっていない。人類は、進歩したといっても、まだ、そこまでは行きついていないのだ。そういうことは、すべて、これからの問題として残されているのだ。

 また、ナポレオンを例にとって、彼自身の野心によりイギリスとヨーロッパの通商を禁じたこと、ロシア遠征をしたことが結果として失敗し、多くの人々を苦しめることとなってしまったことを挙げて、こう言っている。

英雄とか偉人とかいわれている人々の中で、本当に尊敬出来るのは、人類の進歩に役立った人だけだ。そして、彼らの非凡な事業のうち、真に値打ちのあるものは、ただこの流れに沿って行われた事業だけだ。 

 

まさにその通りだろうとも思うのだが、難しいのは「何が人類の進歩につながって、どのようなことが人間を幸福にするのか」ということが後世の人間には分かったとしても、当時の人間には簡単には分からないということだ。

歴史を勉強すると、ある種の必然的な流れでもって人類は進んできたと思うこともあるかもしれない。だが、実際の歴史は偶発性をもって進んできたという面も大きい。

今年ベストセラー本となった『サピエンス全史』の中には次のようなことが書かれている。

歴史は決定論では説明できないし、混沌としているから予想できない。あまりに多くの力が働いており、その相互作用はあまりに複雑なので、それらの力の強さや相互作用の仕方がほんのわずかに変化しても、結果に大きな違いが出る。そればかりか、歴史はいわゆる二次のカオス系なのだ。 

 例えば、昨年のアメリカ大統領選においてトランプが勝つかヒラリーが勝つかなんてことは直前まで誰にも分からなかったことで(多くのメディアは世論調査を元にヒラリーが有利という予想を出していたし)、トランプが勝ったことは「歴史の謎めいた選択」であり必然のように語ってはならない。トランプが勝ってから、欧州でも反グローバル化の流れが強まったが、そうした傾向は偶然から生まれた不確かなもので今後簡単に変化し得るものかもしれない。あるいは、今後ますます強まっていく必然的な流れである可能性もある。これは、現代に生きる我々には分からないことだ。

だから、『君たちはどう生きるか』で言われているように、人類の大きな進歩の流れに沿って、進歩に貢献する活動をするというのは、難しいことである。

 

確かなことであろうと言えるのは、我々人間が、人間らしく幸福に生きていけるような世の中にするべきだ、ということだろう。

マクロな認識の下で人生を見つめたコペル君は本書の最後でこのようにノートに書き綴っている。

僕は、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中が来なければいけないと思います。人類は今まで進歩して来たのですから、きっと今にそういう世の中に行きつくだろうと思います。そして、僕は、それに役立つような人間になりたいと思います。 

 

もちろん、コペル君の言っていることは僕も同感する所である。だが、これだけでは僕自身の人生の指針として物足りない。

先程の「人類の進歩の大きな流れ」という視点で見るならば、おそらく確かな流れだろうと言えるものがある。それは「人類の技術の進歩」である。

もちろん「技術の進歩」と一口に言っても、具体的にどのように進歩するかを見極めることはできない。昨今、注目の的となっている人工知能というところで見ても、カーツワイルの言うようにシンギュラリティが起きるのか、起きないのか、人工知能のブームはこれからも続くのか、それともまた萎んで「人工知能 冬の時代」などと言われ出すのか確かなことは言えない。

 

それでも、全体として「人類の技術の進歩」は進んで、そのことが人間社会に大きな変化をもたらすであろうことは確かであるだろう。

そうした社会の変化の中で技術をより良く使い、人間が人間らしく生きられるような、幸福に生きられるようにするために役立てていくということは、これからの私たちの課題と言えるだろう。

僕は現在置かれている状況や、能力や適性というところからして技術の進歩それ自体に貢献するのは難しい。だが、技術の進歩をどう人間に役立てるか、社会が変化する中で人間はどのように生きてゆけばよいか、そのモデルを考えるようなことは自らの適性と照らし合わせても、(もちろん難しいが)可能であるだろう。

もちろん、そのためには人間というものに深く向き合わなければならないだろう。

 

マクロな認識の下で人生を見つめ、コペル君のように表明文を書くならこうだろう。

「技術がますます進歩する中で、人間はもっと人間らしく幸福でいられるような、そういう世の中が来なければいけないと思います。様々な人間の汗と努力はそのような世の中に行き着くためにあると信じています。そして、僕はそのために役立つような人間になりたいと思います。」

 

(追記)

当記事は、余裕がないために毎日精一杯の生活をして、ミクロな認識の下で日々の生活を送っている多くの人々を否定するものではありません。

むしろ、そうした人々の努力こそが社会を回し、人類を進歩させる根源となる力であると考えています。

『君たちはどう生きるか』にもそのことは力強いメッセージとして記されています。

なるほど、貧しい境遇に育ち、小学校を終えただけで、あとはただからだを働かせて生きて来たという人たちには、大人になっても、君だけの知識をもっていない人が多い。幾何とか、代数とか、物理とか、中学以上でなければ教えられない事柄については、ごく簡単な知識さえもっていないのが普通だ。ものの好みも、下品な場合が少なくない。こういう点からだけ見てゆけば、君は、自分の方があの人々より上等な人間だと考えるのも無理はない。しかし、見方を変えて見ると、あの人々こそ、世の中全体を、がっしりとその肩にかついでいる人たちなんだ。君なんかとは比べものにならない立派な人たちなんだ。―考えて見たまえ。世の中の人が生きてゆくために必要なものは、どれ一つとして、人間の労働の産物でないものはないじゃあないか。いや、学芸だの、芸術だのという高尚な仕事だって、そのために必要なものは、やはり、すべてあの人々が額に汗を出して作り出したものだ。あの人々のあの労働なしには、文明もなければ、世の中の進歩もありはしないのだ。

長い引用となりましたが、著者・吉野源三郎氏からの極めて重要なメッセージであります。

 

仮にマクロな認識の下で高尚な志を持っていたとしても、何も成し遂げられなければ何の意味もありません。逆に視野は狭くとも、一つのことに集中して何かを成し遂げたとしたらそれは素晴らしいことです。一つのことに特化して何かを成し遂げたとすれば、それは結果的に社会全体のためにもなっているかもしれません。

最後に、自分自身への戒めも込めて、『君たちはどう生きるか』から再度の引用をして締めくくりとさせて頂きます。

君も大人になってゆくと、よい心がけをもっていながら、弱いばかりにその心がけを生かし切れないでいる、小さな善人がどんなに多いかということを、おいおいに知って来るだろう。世間には、悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にも余計な不幸を招いている人が決して少なくはない。人類の進歩と結びつかない英雄的精神も空しいが、英雄的な気迫を欠いた善良さも、同じように空しいことが多いのだ。

 

 

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教育学部に入りたての僕が現時点で教育について考えていること

進振りの結果、教育学部に内定し教育学部の授業が始まってから一週間が過ぎた。

現時点で僕が「教育」について考えていることを記しておこう。

この記事は「教育」についての僕の考えを他人に対して公開する(見せる)という目的もあるが、後々になって僕自身が過去に考えていたことを振り返れるようにするために書くという目的も大きい。

教育学部の授業で影響を受ける前の、素人考えの「教育観」を記録しておこうというわけだ。後に、「価値観が変わったな」とか「過去の自分が考えていたことは、内容としては稚拙だけど方向性は今と同じだな」などと振り返ることができれば幸いである。

 

前置きはこのくらいにしておこう。

まずは、「教育」の意義について考えることにする。

はじめに結論を言ってしまえば、「教育」の意義は「自律した思考を生涯にわたって継続できる人間へと育てる」ことにあると思う。

「教育」とは文字通り、「教え育てること」だろう。「教育」の対象は人間であり、より望ましい人間へと育てることが教育の目的だろう。

では、「より望ましい人間」とはどのような人を指すのか?

人格者であること、健やかな人間であることなどは重要な要素だが、人間を人間たらしめていて人間社会で生きていく上で最も重要な要素は「思考すること」にあるのではないだろうか?

 

フランスの哲学者パスカルはこう言っている。

人間はひとくきの葦に過ぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、自分が死ねることと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。

だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。

 続いて、僕が好きな「涼宮ハルヒシリーズ」からも引用しよう。「涼宮ハルヒの驚愕(前)」の佐々木のセリフ。

「やれやれ。人は何故生きるのかとか、何のために生きているのか、なんて設問は禅問答の範疇でしかないよ。観念的な意味があるように見えて、その実何の意味もない。でも、それを承知の上であえて言うのならば、僕の存在意義は第一に『思考すること』であり、第二に『思考を継続すること』と答えるしかないな。考えることをやめる時は僕が死んだ時だけであり、逆説的に、考えることをやめたらそれは死んだも同然と言える。僕という個は消え失せ、ただ動物的な生が残るだけだろう」

 

やはり、人間を人間たらしめているものは「思考」であり、「思考」が人間として生きていく上で必要不可欠のものであるということは皆の共通認識とする所ではないだろうか?

文化や科学といった人間的な営みはすべて「思考」に起因するはずだ。人間が登場する以前まで、地球上では生物が環境に影響を及ぼす場合、それはほとんど「遺伝子」の力だったと言えるだろう。動物一個体ではほとんど環境に影響を与える力を持たなかったはずで、「遺伝子」による繁殖で集団となった時にかろうじて環境に影響を与えるようになるという程度ではないだろうか?

言うまでもなく、人間が環境に影響を与える力は遺伝子に留まらない。一人の人間が何らかの発明・発見をしたり、何らかの価値観を生み出すことで環境(社会)を一変させてしまうのである。

 

また、「徳」とか「思いやりの心」なども人間社会をより平和的に、各人が満足度の高い生活を送るために生み出された概念と考えるなら、こうしたものも思考の営みの延長にあるはずで、いずれにせよ「思考」が人間として必要不可欠なのは言うまでもないだろう。

生まれたばかりの赤ん坊は思考する力をほとんど持たないはずなので、人間として生きるために必要な「思考力」を養うのは教育の役目であるだろう。

 

さきほど、教育の意義を「自律した思考を生涯にわたって継続できる人間へと育てること」と書いた。このように書いたのは、教育が「洗脳」であってはいけないと思うからだ。

人間にとって必要なのは「学び」であると思う。自律した思考により、新しい概念を生み出したり、発見をしたり、社会に影響を与えるような行動をしたりするためには「学び」が必要であろう。

教育とは、自ら考え、学習し、新しい知見を追求する営みである「学び」をサポートするためのものであると思う。「学び」をする上で必要な思考力を醸成する、あるいは前提となる基礎知識を伝授するのが「教育」の役目であるはずだ。

そして、「学び」とは生涯にわたるものだ。「学び」とはいわゆる学問に限定されているものではなく、社会を生きていく上で自律した思考により新しいものやより良いものなどを追求していく営みのすべてが「学び」に該当するのだと思う。

 

ホリエモンの『すべての教育は「洗脳」である』にこう書いてある。

対して「学び」 は、常に能動的だ。未知の領域に足を踏み入れ、新しい体験や考え方を味わうことのすべてがこれにあたる。だから、場所は学校や企業に限定されないし、正解もいらない。すべては、「自分で切り拓いていく」営みなのである。

お年寄りになっても、「学び」は可能であるし(脳機能が衰えれば話は別だが)、目まぐるしく動く世界の中で、思考を新たにしていく営みは「学び」であると言えるので、「学び」とはすべての人が社会を生き抜く上で行っていかねばならないことなのである。

「学び」とは生涯にわたるものであり、「学ぶ力」を養成するのが教育だと僕は感じている。

 

ここまで、原理・原則としての僕なりの教育論・教育観について語った。

次にその実践編として日本の教育を考えていきたい。

端的に言えば、日本の教育は「(思考する上で前提となる)知識を伝授すること」と「思考力を醸成すること」に傾倒していると思う。先程までで散々書いた「自律した」という要素が圧倒的に欠落しているのである。

 

学校での授業のことを思い出してみよう。

常に「問い」を投げかけるのは誰であっただろうか?

「問い」を投げかけるのはほとんど常に教師や教材であり、生徒は常に答える側で受け身の姿勢であったはずだ。

学校の授業で、生徒自身が疑問を持ち自ら探求していく「学び」のプロセスはほとんど実現されていないと言えるだろう。

学校教育は知能としての「思考力」を養ってはいるのだが、主体的に「学んでいく」ために必要な「自律した思考」については養うどころか、むしろ妨げているのである。

 

なぜ、そうなっているのか?

学校は生徒に強い「自我」が芽生えるのを嫌うからである。

その理由の一つとして、強い「自我」が芽生えた生徒がたくさん出てくると集団授業をするのに支障が出るという問題があるからだろう。

確かに、学校中にお札を貼って回ったり、真夜中の校庭に忍び込んで石灰でデカデカと謎の文字を書いたりするような涼宮ハルヒのような生徒が出てきては学校側としては困るだろう。

ただ、理由はそれだけではないと思う。

そもそも学校教育は「従順で有能な労働者を大量生産すること」が目的としてあるからではないだろうか?

またまた、ホリエモンの『すべての教育は「洗脳」である』からの引用であるが、同様のことが書かれている。

学校は、そこに通う人間を、とにかく「規格」どおりに仕上げようとする。建前上は「個性を大切にしよう」「のびのびと育ってほしい」などと言うものの、その裏にはいつも「ただし常識の範囲内で」という本音が潜んでいるのだ。 

(中略)

教師は子どもたちに同じテキストを暗記させ、同じ数学の問題を解かせ、同じルールで採点していく。赤点を取ったり、問題行動を起こしたりした子どもは、どうにか「規格内」になるよう尻を叩く。そして、「会社」に納品する。

というわけである。

涼宮ハルヒの例で言えば、真夜中の校庭に忍び込んで落書きするのは流石に問題かもしれないが、自己紹介で「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上」と言ったり、SOS団(世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団)を結成することなどについては何ら問題ないだろう。しかし、現実の学校では後者の行為もおそらく問題視され、生活指導を受けることになってしまうはずだ。

涼宮ハルヒは極端な例だが、学校教育が「規格内」に収まった「常識」のある人間の育成を目的とし、強い「自我」の発芽を嫌っていると言い切れる根拠となる事例がある。それは道徳の「教科化」だ。

道徳にまで成績をつける、つまり「正解」を求める教育が行われようとしているのである。

多様性を排除する教育であり、複数の正解を認めない、強い「自我」を目覚めさせてしまうような自律した思考を妨げようとする学校教育の姿勢が表れていると言えるだろう。

 

自ら考え、新しい知見を追求していく営みである「学び」を支える根幹となる「自律した思考力」を育成することと、強い「自我」を目覚めさせる教育は表裏一体であると思う。

「教えられる」のではなく、「自ら考える」の度合いを強めれば強めるほど、その人なりの「自我」が芽生えていくはずだからだ。

確かに労働者としてこき使うためには「自我」は邪魔かもしれない。

しかし、我々は人間である。人間らしく生きていくために、単なる葦ではなく「考える葦」として生きていくために、僕は教育が「自律した思考を生涯にわたって継続できる人間へと育てる」ためにあることを願うばかりである。

 

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姫乃たま『職業としての地下アイドル』感想・書評

『職業としての地下アイドル』という本を手に取ってみた。

 

この本は姫乃たまさんという現役の地下アイドルの方が書いた本である。

この本を手に取ったのは、以前僕がとある地下アイドルのファンだったことや、最近わけあって地下アイドルに再び興味を持ち始めていることが理由である。

 

ひとまず簡単に感想を書くと、読みやすい文体であったし、姫乃さんの体験談に加え実施したアンケートから数字の上でも地下アイドルおよびファンの実態に迫っており、「地下アイドル」という文化現象の社会学的な考察として一定の価値があると感じた。

本書の帯には社会学者の宮台真司さんのコメントが掲載されている。

現役地下アイドルが幾多の数値データを、自分の実存を賭けて解釈していく本書は、狭義の「地下アイドル論」を遙かに超えて、芸能の歴史と本質への最高を迫るだろう。誰もが成し得なかった社会学的な考察だ。 

 地下アイドルに少しでも興味がある方は読んでみて、損することはないと思う。

 

また、本書は単に地下アイドルの考察としてだけではなく、若者一般や現代社会を考える上でも役に立つと思う。

本書に繰り返し書かれていることであるが、地下アイドルは「普通の女の子」が多いのである。アイドルというと、人前に出るのが好きで、目立ちたがりで、明るくて学校では中心的な存在(スクールカーストの上位)の人の集まりなんだろうなとイメージしがちかもしれないが実態としてはそうではないのだ。

例えば、本書では地下アイドルへのアンケートの結果として次のようなものが載っている。

地下アイドルを対象としたアンケートでは、「あなたは学校でどのくらいのスクールカーストに属していましたか。あるいは属していますか」という質問に対して、

「上」と「中の上」が27.0%

「中」が53.9%

「中の下」と「下」が19.1%

と回答していました。

一方で、2016年にオウチーノ総研が一般の人たちを対象にした「『学校生活』に関するアンケート調査」では、「あなたは『スクールカースト』のなかで、どの層にいたと思いますか?」という質問に対して、

「最上層」「上層」が33.0%

「中層」が43.7%

「下層」と「最下層」が23.3%

と回答していたのです。 

これを見れば分かるように、地下アイドルの女の子たちの分布と一般の人達の分布はほとんど同じであり、地下アイドルが実は「普通の女の子」たちであるということを端的に表している結果だと言えると思う。

この本を読み進めてくと、地下アイドルの女の子たちというのは「普通の若者」たちと同じような悩みを持っていることが分かる。

承認欲求であったり、アイデンティティに関する悩み、居場所が欲しい、というような悩みなどだ。

また、地下アイドルの増加はSNSの普及・拡大とも密接な関わりがあるが、地下アイドルの子たちがSNSでやっている仕事(地下アイドルにとってはSNSの更新も立派な「仕事」である)は、自撮り写真を載せたり日常生活のことを書いたりなど「普通の女の子」が「遊び」でやっていることの延長線上にあるという。

「SNOW」などの写真加工アプリの普及や、SNSや動画アプリを通じて、写真や動画を投稿した経験のある女子高生の割合が68.9%に上るという事実と照らし合わせると、地下アイドルの活動は「可愛く見られたい、誰かに認めてほしい」という多くの若い女の子が持つ欲求を満たすものであるということらしい。

このように考えてみると、地下アイドルの考察というのはほとんどそのまま現代に生きる若者の考察にも直結しているように思う。

 

ここまで他人事のように書いてきたが、上記に書いたような地下アイドルの悩みや欲求というのは実は僕自身にもあてはまることだ。

アイデンティティに関する悩みや居場所が欲しいというようなことはまさに今の僕自身が抱えているものであるし、承認欲求という点からしても例えばこのブログを書いていることはその発露であると捉えることができると思う。

コミュ障で友達が少なく、パッとしない僕と可愛らしく一見華やかな地下アイドルは客観的に見れば対照的な存在でしかないだろうが、根っこの部分で似通っていたり共通する部分があるのである。

(僕がどんな高校生、大学生であったかということについては以下のものをご参照下さい)

高校時代

todairyunen.hatenablog.com

大学入学後

todairyunen.hatenablog.com

 

 本書の中に記されている次のアンケート結果は意外に思われる方も多いかもしれない。

「いじめられたことがある」

地下アイドル:52.1%

一般の若者:11.7%

「いじめられたことが少しはある」

地下アイドル:28.7%

一般の若者:26.7%

「いじめられたことはない」

地下アイドル:19.1%

一般の若者:61.6% 

この結果を見ると、地下アイドルがいじめられたことのある割合は一般の若者に比べ有意に高いことが分かるだろう。

著者である姫乃たまさんも本書のプロローグにおいて、いじめられた経験を告白している。

姫乃たまさんによれば、

「地下アイドルの性質は内気な目立ちたがり屋」 

 であるという。

僕自身のことを少し語らせてもらうと、コミュ障でぼっち気味だった僕はどちらかといえば明らかに「いじめられる側」であった。中1の頃、毎日のように「学校に行きたくない」と思っていた時期もある。当時の僕は「いじめられている」という認識ではなく「いじられている」という風に思っていたが、自分がいじめられるような人間だと思いたくなかった故かもしれない。

また、僕自身も「内気な目立ちたがり屋」に該当するのではないかと思う。

アイドルの子とは違って容姿で目立ったり、人前に出て目立つことは出来ないものの、最近の僕は「普通」とは違ったことをやりたがったり、主体的に何かをやろうとすることが多かったからだ。

僕の場合は「目立つ」ことを目的にしているわけではないつもりではあるが、このあたりに地下アイドルの子と共通したものを感じた。

一見、自分とは全然異なる存在にも思える地下アイドルに近しいものがあったということは驚きだった。こうやって考えると、地下アイドルの女の子たちというのは僕も含め「普通の若者」の縮図のようにも感じた。

 

また、なぜ「普通の女の子」たちが地下アイドルになりたがるのかもよく理解できる。

地下アイドルの活動は、自分が「何者」かでありたい、特別でありたい、他人から認められたいという欲求を満たしてくれるものであるからだ。

 

しかし、時として地下アイドルの活動がかえってアイデンティティを見失わさせるケースも起きるらしい。

著者である姫乃さんもこの状態に陥り、引退する一つの理由にもなったという。(姫野さんはその後また復帰し、現在も活動しています)

ファンに好まれそうなことを追求するあまり、どんどんと自分を殺しているような感覚に陥り自分を見失ってしまったというのである。

復帰後の彼女は、「自分らしく」あることを意識するようになった。結果として、彼女の強みや個性を活かして地下アイドルとしてだけではなくライターとしても活動するようになり、この本の出版などに至った。

 

持論だが、復帰後の姫乃さんの「自分らしさ」を追求した活動スタイルはこれからの社会を生きる上で一つのサンプルケースになると思う。

「終身雇用で同じ会社で定年まで働いて、後は年金暮らし」というモデルケースが崩壊しつつある今、現代に生きる若者は個性や強みを持ち「不安定」な社会の中で強く生きていくことがより求められていると思うからだ。

僕自身もそういうことを意識しているし、「自分らしい」生き方を模索中だ。

アイドルにしても一般人にしても個を強く持って「自分らしさ」を追求する人は増えていくだろう。

 

 色々話が散らかってしまった。

『職業としての地下アイドル』の感想のまとめを最後に書くと、姫乃さんが地下アイドルとして経験したエピソードは非常に興味深く面白かったし、地下アイドルの実態を知る上でこれ以上ない本だと思うし、現代に生きる若者一般について考える上でも役に立つ本である感じた。

また、このブログでは地下アイドルの子たちはどんな人間なのかということを中心として、本の感想を超えて僕自身のことや僕なりに考えたことをつらつらと書いてしまいましたが、この本は地下アイドルの現場の様子や雰囲気なども詳しく書いてあるため、地下アイドルやファンの実態に少しでも興味ある人にはオススメです。

ということを付け加えた上で、締めくくりとさせて頂きます。(笑)

 

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凡人東大生が語る受験勉強のモチベーションや息抜きの話

この記事では、僕がどのようなモチベーションで受験に臨み受験勉強を続けていたか、などのメンタル面の話や息抜き等の話について書こうと思う。

(勉強法などの話については以下の記事に書きました)

todairyunen.hatenablog.com


受験勉強のモチベーションについて、僕の場合はコンプレックスが根底にあったと言えるだろう。

以前の記事でも書いたが、僕はコミュ障でこれといった趣味も無い人間である。

todairyunen.hatenablog.com

僕は中高一貫の男子校に通っていたが、はっきりと「友達」と言える人間は中高時代一人もいなかった。

一緒にいることが多かった人や時々一緒に帰る人などは多少はいたが、彼らとの思い出はほとんど無く、当時何を話していたのかも全く忘れてしまった。

一つ言えるのは、僕が彼らに心を許していなかったということだ。

彼らのことが好きになれなかった、ということでは無く僕が自己開示をすることが苦手であったことが原因であったと思う。

自分のことを全然話さない(話せない)ので他人と心を通じ合うことができず、表層的な関係に終わり仲良くなることが出来なかった。

そもそも表層的にでも会話する人がまず少なかった。

 

人と仲良くなることができず、ならば一人でも打ち込めるものがあれば良いがそれも無かった。

ただ漫然と日々を過ごしていて、何も誇るものが無かった。休日に誰かと一緒に遊ぶということもほとんど無かったし、中身のない毎日だった。

中3の時、そんな僕のコンプレックスを刺激させるような出来事が起きた。

 

「お前っていつもぼっちで何も喋らないし、成績もクソ悪いし生きてて楽しいの?」

というようなことを言われたのである。

前の記事で書いたが、当時の僕は英語の実力試験で235人中220番くらいになるほど成績が悪かった。この発言を聞いた時は、「さすがに成績が悪すぎるから、勉強を頑張ってみよう」とぼちぼち自分で計画を立てながら勉強を開始していた時期であった。

その発言をした人は、学年でもまあまあ上位の成績の人だった。僕はひそかにその人に成績で勝ってやろうという気持ちを抱いたのである。

(結果的に彼とは成績の上で互角程度になり、共に現役で東大に合格した)

 

もちろん、これはきっかけの話であり彼に勝つために大学受験にまで至る勉強を頑張っていたわけではない。

僕の勉強のモチベーションは、上に書いたようなコンプレックスを掻き消すということであったと思う。

何もない自分、誇るものがない自分にせめて「勉強はできる」ということで救いを求めたかったのである。

 

中3から高2にかけて成績は右肩上がりで上昇し続けた。

偏差値や校内での順位は高2の終わり頃に最高潮を迎えることになる。

偏差値が上がれば上がるほど、自分の中で劣等感は消え失せ満たされていった。「成績が上がっていること」が僕の勉強へのモチベーションを支えるもう一つの要因であった。

こうやって書いてみると「中3からガリ勉してた」ようにしか見えないが、当時の僕はそこまでガリ勉してるという認識はなかった。純粋に頑張った結果が数字に表れるのが嬉しく、やりたいから勉強をやっていただけであった。勉強に飽きて全然やらないような時期もあった。だが、トータルで見れば受験生でもない中3~高2の時期の勉強は人より多かったのだろうと思うし、客観的に見ればガリ勉してたとしか思えないだろう。

とにかく、この時期の勉強があったからこそ東大に合格できたというのは間違いないだろう。

 

高3になりいよいよ受験生として勉強量を増やすようになったが、ここからは苦しむことが多かった。

もちろん、受験生として出来る限りの時間を勉強に費やすようになったことが大きな要因だが、「偏差値や順位が上がらなくなったこと」も大きかった。

高2の終わり頃に最高潮だった僕の偏差値は停滞し、どちらかと言えばやや下降していた。

勉強を頑張れば偏差値が上がることが当たり前だった僕にとってはなかなか苦しかった。勉強量を増やしたにも関わらず、(相対的な)成績は下降しているからだ。

相対的な順位、偏差値が下降した要因としては次のようなものが挙げられるだろう。

・周りの人達が受験生として勉強を頑張り出したこと

・模試においては浪人生が参加することも多くなり、得てして浪人生は現役生よりもできるため母集団のレベルが上がった

・僕は塾には通わず、参考書を買ってきて自学自習するのが勉強のメインだったが、自学自習の勉強では難関レベルに対応しにくい、あるいは東大にターゲットを絞った対策がしにくかった

(この問題点に気づいた僕は、「東大にターゲットを絞った難関レベルの勉強をするため」塾通いがある程度は必要と感じ、英語・数学・世界史で塾に通い始めた。英語は面倒になって途中で辞めたが)

 

それにも関わらず、なぜ勉強のモチベーションを維持し受験勉強を続けられたのか?

最も大きな理由は、僕が東大に異様なこだわりがあったからだろう。

当時の僕は正直早慶では負けだと思っていた。

もちろんこれは早慶に行く人が「負け組」ということを指すのではなく、東大に落ち早慶に進学したら「自分に負けた」と感じていたからだ。

全力を出して受験勉強をすれば、必ず東大に合格できると信じていたからだ。

 

東大にいって何かやりたいことがあったわけではない。

僕の根底には依然としてコンプレックスで満ち溢れていた。勉強以外のことについてはまるで駄目であったからだ。だから、せめて勉強だけは東大に合格して他人から認められる実績を作らなければならないと思っていた。

また、自分自身のプライドという問題においても東大に合格できなければ、本当に何もない空っぽな人間だと認めざるを得ず、プライドの崩壊は避けられなかったからだ。

 

印象的な出来事として体育祭がある。

僕の通っていた学校では体育祭が盛んで、高3生は下の学年を指導する立場として体育祭に全力で打ち込むという風潮があった。

僕はもともと体育祭はあまり好きではなかったが、高3になってこの体育祭を非常に面倒に感じていた。

自分はコミュ障だし、学校に気を許せる親しい友人もいないし、もうこのような青春イベントはどうでもいいと思っていた。暑苦しいのは鬱陶しいだけであった。

それよりも 勉強が最優先で、体育祭に東大合格の邪魔はさせないなどと思っていた。

高3の人は皆何らかの役職につかねばならないのだが、僕は「ヘルパー」という最も楽な役職を希望し、無事「ヘルパー」になった。

最も楽な役職といえばまだ聞こえはいいが、「ヘルパー」は実質的に学内のヒエラルキースクールカースト)で最底辺の人間がやるものというような役職だった。

先輩として下の学年の指導をするわけではなく、足りない所に入る駒としての役割だった。確かに楽で、受験勉強の妨げにはあまりならなかった。しかし、周囲の人が体育祭で目一杯に楽しみ、体育祭終了後に切り替えて全力で勉強に打ち込んでいく中、自分はエンジンをふかし切れず中途半端になってしまったのだった。

 

正直、コンプレックスを原動力にしたモチベーションだけでは受験勉強は続かなかっただろう。当時の僕は「息抜き」が必要だった。

 

僕の「息抜き」はアイドルだった。

高2の頃にとある地下アイドルにハマるようになった。まあ、ハマっていたとはいってもそこまで熱烈なオタクというわけではなく、お金もないので無銭のライブを中心として時々現場に足を運び、毎日ブログやツイッターをチェックするという程度だったが、それでも僕の中では大きな出来事だった。

そこのグループが高2の3月(高3になる直前)の時、活動休止になり僕自身も受験生として勉強に集中しなければと思ったため在宅オタにシフトしたが、依然としてアイドルのブログやらツイッターをチェックすることは日常と化していた。

毎日、一日の勉強が終了した夜中をアイドル関連のネットサーフィンする時間と定め、ほぼ欠かさずにやっていた。

この時間が唯一の心安らぐ時間であり、この「息抜き」があるおかげでメンタルを保っていたという面はあると思う。

このアイドルの話については、また独立した記事に詳しく書こうかと思う。

 

全体として、僕の受験生活は苦しく感じることもあったが、基本的には充実を感じていた。

それまでの人生の中で全力で何かに取り組むという経験はなく、はじめて毎日継続して努力するということができたため、そのこと自体に達成感があったからである。

ただ、ここで毎日頑張って充実感を感じていたことが、東大合格後燃え尽き症候群と化してしまった原因になってしまった。

必ずしも偏差値の高い大学に合格することが幸せに繋がるわけではない、ということは最後に記しておこう。

 

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